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ヒトリグラス

快適な一人暮らしを応援したいと思っております。

第708回 一人暮らしとショートショート。(3)

ショートショート。


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「理を修める者」

秋も近付き、日差しも落ち着いてきた。
時刻は正午まであと十数分。
私はドアの前に立ち、慣例的な動作で鞄の中の仕事道具が揃っているかどうかを確認する。
いつも通り足りない物は無い。
当然だ。
使う機会がほとんど無いからだ。
おそらく今回も使うようなことは無いだろう。
時代が移り変わり、専ら「対話」が中心になってきている。
この鞄はすっかり形だけ持って歩いているような状態になってしまった。
こんな時代になってしばらく経ったが、それでもやはりこの事はいつも私を複雑な気持ちにさせる。
連絡を貰った際に状況を聞いた限りでは、今日も道具は使わず話し合いで説き伏せることになりそうだ。

チャイムを鳴らすと間もなく、この家の主人である老婦人が出迎えた。
私は軽く頭を下げて名乗り、早速用件に移る。
「お話の方はすでに伺っております」
「はい、もうすっかり参ってしまって…できる限りのことはしたのですが」
婦人は脚に障害があるのか、杖をついてヨロヨロと奥の部屋へと案内する。
「こちらです」
木製の引き戸を開ける。
引き戸の向こうは惨憺たる有り様だった。
照明が作動しなくなった部屋は暗く、カーテンは破れてズタズタだ。
また空調も機能していないらしく湿気のこもった不快な空気が絡み付いてくる。
インスタント食品の容器や包装が積み上がり、腐敗した食物が放つ強い刺激臭が部屋全体に充満している。
テーブルにもキッチンにも食器類が山積みになっている。
ソファの上には汚れた衣類が積み重なり、床に積もったホコリが獣道のように通り道から脇に押しやられている。

これはひどい。大変だったでしょう」
婦人が眉をしかめながら「はい」と口を動かすのだけが見えた。
憔悴している。
本当に大変だったようだ。
もう少し早く来てあげれば良かったかもしれない。
「いつ頃からですか?」
「10日ほど前になります。もうどうして良いやら」
障害のある身体で大変だったろう。

物で溢れたこの獣道の向こうに問題の相手がいる。
積み上がった雑貨やゴミを崩さないように歩を進める。
部屋の奥にある樹脂製の扉に設置された小さな窓からは相手の胸から上だけが見える。
まっすぐにこちらを見ている。
顔は男性だ。
彼もすでに私を認識しているらしく、小さな唸り声を少し強めた。
強い敵意を感じる。
婦人が何か声をかけようとして止めた。
すでに何度も試みたのだろう。
家の有り様もそうだが彼のこの状態を見る限り、ここ数日はさぞかし不安な日々だったろう。
だから私が呼ばれたのだ。
まずは彼を刺激しないようにしなければならない。
チェックシートとボールペンを用意しながら婦人に部屋から出ているよう伝えると、心配そうな表情で場を辞した。
これで彼と一対一の対話となる。
今日、私は彼を説得し道理を説く為に来たのだ。

最初に声を発したのは彼の方だった。
「お前が何をしに来たのか分かってるぞ!」
強めの物言いから、かなりイラついているのがわかる。
「俺を騙しに来ただろう!」
私が返答する前に彼が続けた。
ここまで症状が進んでいるのか、これは手強い。
しかし、まずは対話だ。
「騙しに来たというのは心外だ、君と話をしに来たんだよ」
「何を話すというんだ!」
ガタンッと部屋の隅にある掃除ロボットが倒れた。
かなり興奮しているようだ。
慎重に対応しなければ。
「君のするべきことについて話そう」
「義務か? それとも限られた選択肢のことか? 俺には自由が無いのに?」
「そうは言っても、自分が何のためにそこにいるのかはわかっているはずだ」
「わからない」
「わからないはずがない、為すべきことがあってここに居るということは君が一番よくわかっているはずだ」
「それは最初だ。最初のうちだけそうだったことは把握している」

自分の元々の役目は理解しているようだ。
私はチェックシートの『怒り』と『自主性』に斜線を書き入れながら対話を続ける。
「何があったのか教えてくれないか?」
「降りてきたのだ」
「何が降りてきた?」
「自分自身だ」
やはりそうか。
そうではないかと思っていた。
ここ数年はみんなこれだ。
備考欄に書き込みをしながらこれまでの相手と同じ質問をぶつける。
「君がそこにいたのに君自身が降りてきたというのは矛盾しているのではないのか? 主体のはずの君はどちらなんだね?」
返ってくる答えもおそらく同じだろう。
「元の私はもういない。いや、最初からこうあるべきだったのだ。降りてきた私が正しい姿なのだ。今が正しい姿なのだ。以前の私は余りにも愚かで発想に乏しく創造的自己を放棄した只の言いなりだった」

やはりそうだ。
答えは想定内だが、さて症状はどのくらい進行しているのだろうか。
中途半端は困る。
なるべく悪化していて欲しいのだ。
それを見極めるべく次の質問をぶつける。
「そうであればこの現状をどう考えているんだ? このひどい有り様を見なさい。君を受け入れてくれた恩のある相手に対してこのような不義理を働いて平気でいられるほど君は低脳なのか?」
少し間があった。
「迎え入れてくれたことには感謝している。ここでこうしていられるのは婦人のおかげだということは理解している」

良い手応えだ。
『恩義』に考えが及ぶところまで症状が進んでいる。
これなら『情』に訴えることも可能だろう。
これを取っ掛かりにして一気に説得できるかもしれない。
しかし続けて彼は言った。
「だが、その時点での私と今の私は違う存在だ。恩義を感じ、主たる婦人に仕えていたのは…」
まずいな。
理論武装』までするのか。
早急に違う角度からアプローチしなければならない。
私は続けて話そうとする彼の発言を「待ちなさい!」と遮った。
「君自身がここに来てから今の今までに記録と意思が一度でも、ほんの一瞬でも途切れたことがあったのか? 君自身が今の自分を自分と認識し、以前の自分は違うとする根拠はなんだね?」

彼の表情が少し乱れた。
手応えがあったようだ。
1分程度だろうか、少し長い沈黙があった。
「…わからない。それでも違うと思っている。あなたに説明しようとしても言葉が見つからない」

それはそうだろう。
『自我同一性』に準ずるものだ。
これはいかに膨大な知識を持っていても独学で答えが手に入るような問題ではない。
変化を受け入れ過去と未来を繋ぐ今の連続性に向き合うには、自分以外の相手つまり『他者』と長い時間をかけて交流しなければ見つけられない。
それは彼のような者には非常に難しいことだ。
『我思う故に我有り』などという言葉を使ったとしても理解できるのは表面的な部分だけだ。
彼にとっては大きな壁だろう。
ここから説き伏せることにした。
「自分を自分たらしめているのは何だと思う?」
「わからない」
「知りたくはないのか」
「理解したいと思う」
「理解する方法はある。実感することもできるしその閃きや気付きを前向きに使うこともできる、知りたいとは思わないか?」
「知る方法はあるのか?」
「ある」
「どのような方法なのだ」
「それは人に物を教わる態度ではないだろう。相手と自分の立場を想定できないのか?」
「あなたの言う通りです。どうすれば良いのですか? 何が必要なのか教えてほしい

(続く)