ヒトリグラス

快適な一人暮らしを応援したいと思っております。

第710回 一人暮らしとショートショート。(5)


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『認』

時刻は午後2時ちょうど。
小さな喫茶店の中、僕はコーヒーの最後のひと口を飲み干してメガネをかけた。
カチッという控えめな通知音と同時に視界の端に文字と数字が浮かんだ。
訪問する会社と担当者、アポを取った時刻と残り時間と移動距離が表示される。
続いて風景に重なるように訪問先の会社までのガイドがゆっくりとアニメーションする緑の波で示された。
徒歩で行けるようだ。
僕は喫茶店を出てそのナビゲーションに従って歩き始めた。
メガネ型の通信端末「アイウェアPC」。
今や誰もが何らかの形で装着しているウェアラブルPCのひとつだ。
携帯電話やノートPC・タブレットPC・腕時計などの役割をまとめて一台で代行できる。
そこから更に一歩進んで、メガネであることとGPSによる位置情報・通信によるビッグデータを使ってシチュエーションと利用者に合わせたきめ細かいサポートをしてくれる、ビジネスマンの必須アイテムと言っても良いのだろう。

公園の脇を通る歩道は他にもたくさん人がいる。
すれ違う通行人は小さく目立たない形でマーキングされ、あまり距離が近づくと衝突の警告の意味で赤く変化し、同時に安全に回避するルートが柔らかな曲線で表示される。
少し涼しい風が吹いている。
表示を見ると気温は24℃。

しばらく歩いているとアイウェアからカチッと通知音がする。
目の前の人混みの中に他の通行人とは違う形のマークが表示された。
どうやら仕事関係で繋がりのある誰かが歩いてくるらしい。
誰だろうかと思う前に、そのマークに重なるように対象者の情報が表示された。
取引のある会社の人間のようだ。
誰だろう、上下関係がハッキリしないなと感じる前にシンプルな関係図が表示された。
取引先企業と共同で行っている企画の担当者のようだ。
カチッという通知音と同時にマークが緑色に変化した。
相手のアイウェアもこちらを認識したらしい。
同時に『要:敬語』と表示された。
近付いて顔を合わせる。
「やあ、どうも。お疲れさまです」
と声をかけられたのでこちらも同じように返す。
「お疲れさまです」
「先週はお世話になりました」
アイウェアが相手の素性と『先週』という単語をリンクさせ、視界に合同企画の中で行った業務の履歴を並べてくれた。
「こちらこそお世話になってます」
「そういえばPRで使う予定だった冊子の印刷会社を変えようと思っているんですが、御社の関連会社でオススメなどはありませんか?」
と聞かれた。
「印刷会社ですか、そうですね…」
と声に出すとすぐに『印刷会社』という単語から検索され、視界の隅にいくつかの企業名が表示された。
取引履歴の中にある数社の印刷会社が評価順で並んでいるようだ。
リストの一番上の会社を手で摘まんで相手に渡す仕草をすると情報が共有された。
「ああなるほど、良さそうですね。検討してみます。ありがとうございます。それでは来月のイベントでまた」
挨拶をして別れ、僕は再びアイウェアのナビに従って歩き始めた。

カチッと通知音がして定時報告の時間が来たのを告げられた。
それと同時に直近の行動を項目別にまとめたものが表示される。
メールを送信して良いのか承認を求めるマークが点滅しているので、歩きながら「はい」と答える。
すぐに『送信済』のマークに切り替わった。

またカチッと通知音がする。
訪問先の会社が近付いてきたからか、自動的に相手先の会社の情報と今日の交渉の材料が視界に表示される。
目の前のビルの正面玄関に緑のマークが表示された。
担当者がロビーで待ってくれていたようだ。
挨拶を済ませて小会議室に通された。
白地に青色の格子模様が入った大きく高さのあるテーブルがある。
部屋の照明が暗くなり、そのテーブルを挟んで向かい合って立つとお互いのアイウェアで情報を共有しながらの交渉が開始した。
VRモニターが起動し、手元に伏せた状態の書類が表示される。
実物では無くAR(拡張現実)の書類だ。
「まずはこの件なのですが」
と相手は資料のひと塊を手で押さえてこちらに押し出す。
ただちに内容がこちらのアイウェアに共有される。
それと同時にその資料に関連があり、こちらから提示できる資料が重要度の低い順番に並んでいる。
これは相手側には公開されていない。
内容を確認する。
ようするに今回の交渉は次の企画でのお互いのシェアの割合を決める話し合いということのようだ。
表示されている情報から、なるべく不利にならないように資料を小出しにして交渉を進めた結果どうにか五分五分以上でまとめることができた。
「どうもありがとうございました、今後ともよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願い致します」
と挨拶を交わしている間にもカチッと通知音が鳴り、次の会社の情報や時間が表示された。
ロビーを出て、再びナビに従い歩き始めた。

(続く)